親切は、とても贅沢な娯楽。そして親切は義務へと変わっていく


こんにちは、中山です

数年前に、私はミャンマーを訪れました

アジア最貧国であるミャンマーでしたが、そこの暮らす人の生活は私が想像していたものとはちょっと違っていました

親切な人が本当に多いミャンマー

ミャンマーに訪れて一番印象的だったのは、本当に親切な人が多いということです

アジア圏は親切な人が多いですが、特にミャンマーはその中でも群を抜いています

ちょっとでも私がお腹を壊したというと、病院までの道を親切に教えてくれたり、ミャンマー料理が口にあわないというと一生懸命味付けを替えたり他の料理が食べられるレストランを探してくれたり、バスの乗り方を訪ねるとバスが来るまで一緒に待って乗り方を教えてくれたりと、私が受けた親切は本当に数え切れません

最貧国で生活は苦しい国ではありましたが、そういった人と人との間にある温かい感情やかけがえのないものにあふれている場所でした

忙しくないから、親切な人が多い

ミャンマーの人がやさしいのは、もちろんそこの文化であり、ミャンマーという国が素晴らしいからと言うのは間違いありませんが、それと同時に、ミャンマーがまだ途上国で忙しい人があまりいないというのも一つの理由であると感じました

ミャンマーの人は殆どが農業や小売店やレストランなど小規模の自営業で生計を立てています

事業自体の規模も小さく、作業もそこまで多くはないのでゆとりを持って働いている印象です

そういった余裕のある時間のおかげで、親切な国民性は維持できているとも言えそうでした

私が道を訪ねるとわざわざ仕事の作業を止めて一緒に道を歩いて教えてくれる親切さは、仕事が忙しくないからこそできることのなのです

いつでも親切にできるのは、自分に余裕があるという贅沢

こうした、いつでも人に親切にできるというのは、自分の生活がなにかに追われていない生活をしているからこそできることでしょう

ミャンマーの人は確かに豊かではありませんが、仕事のノルマに追われている人は殆どいません

何かをしなければならないという気持ちで働き、暮らしているわけではなく、ただその日の暮らしを楽しみながら生きています

何かをしなければならないということがないから、人に親切にすることができる余裕があるのです

親切は、娯楽

ここまで親切なミャンマーの人を見ていると、ある意味でこの国では親切は娯楽として機能しているようでした

ミャンマーには日本にあるような娯楽は殆どありません

テレビを見るとか特別なエンターテイメントとか、そういったものは特になく慎ましい暮らしを送っています

そういった暮らしの中で、親切は他人とかかわり、お互いが幸せになれるとても優れた娯楽としてとてもよく機能しているようでした

親切が贅沢品になってしまった日本

日本は忙しい人で溢れています

なにかに常に追われていて、時間もなければ人のために使う労力もないという人で溢れています

そういった環境では人に親切にすることができるような余裕が無く、親切心が少なくなってしまうのは仕方のないことなのでしょう

時間や仕事に追われているということがなく、人に親切にできるほどの余裕があるというのは日本ではなかなか珍しいことで、日本では親切は贅沢なものになってしまったのです

まとめ:親切は義務となり残り続ける

電車で老人がいたら席を譲る。

こういった親切は日本社会では常識となっており、純粋な自発的な親切心とは別のものになりつつあります

親切が、社会常識や義務になりつつあるわけです

これは、ある意味で日本社会がすべての人が何かをする、すべての人が必要とされている社会という考え方もありますし、ゆとりが無くなってしまった社会で親切の形が変わりつつあるとも言えるでしょう

資本主義が浸透して豊かになった日本ではミャンマーのような親切心を維持していくことは難しいです

そういった中で、こうした義務のような形で親切のあり方が変わっていくことは仕方のないことではと思いますし、余裕がなくなってもそうして形を替えて親切が残り続けるこの社会というのは、悪くはないものだなとも感じたりもします

ほいでは!


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